自称うさぎ


▼二〇〇三年十一月▼


十一月三十二日(月)


みなさまとの時差の関係で十一月がもう少し続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。季節柄、首を吊って歩こうは語呂はいいけど過激すぎるなとお思いのことかと存じます。かく言う私は今年もいよいよ体育祭のシーズンがやってきたなと高校時代の運動会の思い出に浸っているところです。だから今日は高校最後の運動会の日に私が書いた日記をコピーそしてペーストして寝ます。手抜きではありません!単に手を抜いているだけです!


九月三十日(日)
今日はあれです。運動会なのです。高校最後のメモリアル運動会なのですよ。昨日から、お天気が危険だ心配だと思っていたのですが、無事決行と相成りまして本当に良かったです。これも僕の日頃の行いが良いおかげですね。いや、そんなに感謝されると照れるなぁ。ハッハッハッ。そんなわけで今日は日曜なのに朝から学校へ行きました。上半身裸の男子中高生がわらわらといました。一部の方々にはそれはもう舌なめずりのしがいのある光景なのでしょう。ええ、そうなのでしょう。しかし、僕にはその幸せを感じることはできません。そこで、とりあえず友人にいちゃもんをつけて精神的有利に立とうと画策したりして幸せを得ることにしました。相手が下手に出る、頭を下げてくる、なんて幸せな瞬間なのだろう…。ああ…、僕はこの瞬間のためだけに生きてるんだなぁ、そのうち友達なくすんだろうなぁ、友達は失ったらまたつくればいいじゃないか。そんなこんながありまして、学校で友人らと合流後ゲーセン行って本屋行って友人宅へ行って一日中遊んでました。楽しかったというより素晴らしかったです。今日は実に充実した休日でした。



……一部、個人的に当時の自分に対して疑問がありますがまぁいいでしょう。身内の僕が言うのもなんですが、彼は本当は心の優しい良い子なので単に冗談で書いているだけなのでしょう。本音を冗談のように書く術を知らんのでしょう。




十一月二十六日(水)


なにやら聞くところによると、今東京では道端で急にしゃがみこみ頭に両手を添え目を瞑り「やめてくださいやめてください」と声にならない声でしばらく言った後何事もなかったように立ち上がり会社に戻るのが流行っているそうじゃないですか。なんだなんだ最近の東京人は随分とハイカラじゃないか。ちょっと前にも「地域振興券で景気が回復したー!」と叫ぶのが流行ってたそうだしさすがは大都会東京といったところでしょうか。東京まで徒歩二十分もかかる私には想像もつきません。それならば創造してしまえばいいじゃないかフハハハハーとプロフェッサー博士教授が言ってますが脳内の話なのでどうでもいいです。来年一月十五日からテレビ朝日で始まるドラマの出演者欄に松岡修造の名があってそのドラマが『エースをねらえ!』の実写ものなのも脳内の話でなければならないのでどうでもいいです。どうでもいい話ばかりで結局のところ何が言いたかったのかというと、フラッシュを作り始めると日記の更新が滞るからあまりよろしくないのじゃないのかしらとプロフェッサーはおっしゃっている。



松岡修造はテニス監修ですかそうですか




十一月十八日(火)


先日、我が家に僕から電話があったわけですね。しかし、電話を取った母がそれを信用しないわけですよ。確かに最近オレオレ詐欺なる犯罪も流行っているわけですし、疑いたくなる気持ちもわかりますが、なにしろ僕の名前を名乗ってかけてきているわけですよ。オレオレ詐欺は基本的に自分から名前は名乗らないわけで自分から名前を名乗ったとなると本人からの電話だと認識するのが当然だと思うのですよ。それを母が信用しない。いくらその電話がかかってきた時に僕がその場にいたからといってこれは酷い。僕がこの世に一人しかいないという保証がいったいどこにあるというのだ。そう、例えば自分探しをしている僕がやっと本当の僕を探し当て電話してきたものかもしれないのだ。いやむしろ普通に考えればその可能性が一番高いのではないだろうか。古来より若者は自分探しの旅に出がちである。だが普段の生活も続ける。そりゃ同じ人が二人いても不思議ではない。そこに目をつけ一度見破られようと相手に不信感を持たせない二重の罠を張り巡らせ進化したオレオレ詐欺。ハイテク犯罪の恐怖はとどまることを知らない。




十一月十六日(日)


階段は、ただ多くの人に踏みつけられるだけの毎日を過ごしています。これを悲劇と呼ばずしてなんと呼びましょうか。これこそ文明が生んだ悲劇です。いくら踏み越えられることが存在意義とはいえ、何も文句を言わずに淡々と職務を全うする階段氏、そんな階段氏の苦労を何も知らない現代社会の被害者面をした輩どもは、その無垢なる階段さんを叩き割るがごとく踏み鳴らし通り過ぎてゆきます。なんと嘆かわしいことでしょうか。階段さんが何をしてもじっと耐え黙っているからといって調子に乗り、思いやりの心を忘れた人間の姿がそこにあります。やさしさ、それを失った瞬間、人間には一体何が残るのでしょうか?辛うじて何かが残ったとしても、果たしてそれは意義のあるものなのでしょうか?我々は階段氏を登るときに、一段一段、ほお擦りしながら登っていくべきなのではないでしょうか?それが人間の本来の姿とは言えないでしょうか?しかし、私は決して幼少時に幾度となく階下へと突き落とされた恨みを忘れたわけではありません。幼き子供の前に段差として意図的に立ちふさがるという階段の神をも恐れぬ悪魔の所業。断固断罪。やられたらやりかえす、それは永久不変の世界の真理なのです。世の中は無情なのです。やさしさは皆無です。





そもそもなぜフラッシュ合戦に参加を応募したのかというと、もともとその掲示板での活動期間が長くお祭りには参加気味だったのと、自分の中でのマンネリで閉鎖してトンズラしそうだったので変わったことが欲しかったのと、締め切りでもない限り作りかけのフラッシュ作らない説が濃厚だったのと、ジャガイモがひとつに、にんじんが二本、ブロッコリーは買わなくてよい、ということです。映画の値段が高いだなんて言ってません。そんな感じな感じなだけですよ。と、珍しくマジレス。




十一月八日(土)


なぜこんなに更新に間が空いたの!と言われたらいいわけをするしかありません。いいわけだなんて聞こえが悪いじゃないか真摯に理由を説明させていただきます。その日、パソコンの前で僕がさぁがんばるぞと更新をしようとしていると、なんと目の前にたくさんの荷物を抱え横断歩道の前でオロオロ困っているおばあさんがいたのです。善人であるところの僕は居ても立ってもいられなくなり素早くおばあさんを紳士的にエスコートの後に背負い、両手には老婆の荷物を持ち、横断歩道を爽やかに渡りました。そしてあれよあれよと一週間、更新が遅れてしまいました。これは仕方がない。完全に仕方がない。僕らの頭の上に海産物の類が乗っていないことと同じくらいに仕方がないことである。そう、そもそも寿司飯の上に海産物の類が乗っていて我々の頭の上に乗っていないことこそが真に問われ正されねばならない問題なのではないだろうか。私は思う。今、日本が飽食の時代になったからこそ我々はもう一度この問題に目を向けなければならない。物事の本質とは常に見失われる傾向にあるものなのだ。今回の出来事はそのことを再び我々に教えてくれた。