自称うさぎ


▼二〇〇四年十一月▼


十一月三十日(火)


今年ももうすぐ終わりですが、みなさんはどんな一年だったでしょうか。やはり2002年だったり2003年だったりしたのでしょうか。私は四月だったり五月だったりしたのでとてもいい一年でした。しかし、本当に今年はもう終わりなのでしょうか。そもそもそんなことどこの誰が言っているのでしょうか。そんな無責任なことを言っているのはどこの誰なんでしょうか。世論を恐れずそんな怪情報をいつのまにか浸透させている怖いもの知らずさんはどこのどいつなんでしょうか。それは私だ。あっ、あなたはドラえもん。そう、結局のところ我々は騙されていたのだ。最も信じていたものに裏切られたのだ。その計り知れない哀しみはどうでもいいとして鍋奉行が治安を守る鍋をおびやかす鍋悪代官をみねうちで叩き切り鍋の具にする鍋上様と三回唱えるとあと一回で四回目に突入します。がんばりましょう。




十一月二十九日(月)


思いやり!優しさ!愛!昆虫!防弾ガラスってあるじゃないですか。あれって不思議ですよね。なんであんなもので銃弾が防げるんでしょうかね。だってガラスって基本的に透明じゃないですか。透明ってことはなんでも通すじゃないですか。むしろそこにガラスなんてないじゃないですか。ガラスなんてあったためしがないじゃないですか。いったい何回嘘をつけば気が済むんですか。いいかげんにしてください!そんなわけでガラスなんてないじゃないですか。ないってことは単なる概念としての存在じゃないですか。空想じゃないですか。妄想じゃないですか。ガラスの靴だってシンデレラの妄想じゃないですか。誰だってシンデレラと白雪姫がよくごっちゃになるじゃないですか。ついでだから木戸孝允もごっちゃにするじゃないですか。そうするじゃないですか。して当然じゃないですか。すればいいじゃないですか。なんでしないんですか。なにためらってんですか。私たちもう後には引けないんですよ!!ららら、ケミカルウォッシュ〜♪




十一月二十八日(日)


電子レンジでねこを乾かそうとすればたいへんなことになるし、睡眠薬を適量の十倍服用すれば天国までの直行便が運行されるし、目薬を目にさせば爆発するし、要は説明書に書いてあるとおりに何事も行わなければならないわけで誤用は時として深刻な事態を引き起こす。例えば私の敬愛する古代ギリシアの思想家マスカチェリータ金剛はこんなことを言っている。
"飛躍のない論理は眼鏡をかけていないポストのようなものだ"
よくわからない。犬はかわいいってことだろうか。それはさておき、先日ちょっと変わった出来事があった。数日前から妙に指先が固いな固いなと思っていたら指に爪が生えていた。恐ろしい話だ。犬はかわいいってことだろうか。話を元に戻すが、ようするに日本人はもっと「あ」を大切にしていかないといけないということだ。




十一月二十七日(土)


三日ほど前の朝、テレビで紅葉の特集をしているのを見ておいおい紅葉ってずいぶん季節はずれな話題だないったいいつの録画だよとなんの疑問も持たずに思ったナナメさんですがつまるところ日本人の宗教性は薄れていっていると言えるでしょう。なぜなら今の時代の日本人はサンスクリット語の公用語からの脱落による経典理解の低下、またもうほとんどの世帯で家の中に大仏を建立することがなくなっている現状などから宗教への関心が著しく低下しておることは明らか。これはいったいどうしたことだろうか。以下、その原因を多角的な観点からドラクエの話をする。まず第一にドラクエとはマヨネーズである。これは今日発売されたドラゴンクエスト8がやりたいけどなぜか数年前に購入を決意したプレイステーション2が未だに手元にないのに悲観した国民が代わりに豆腐作りを行いその思いを静めた故事による。第二にぼくはおとなだからゲームを卒業したのだ。これはお金がなくてプレステ2が買えない。




十一月二十六日(金)


あああああああああああああああああああああ
「あ」という文字は見れば見るほど味わいがあると思う。あ、あ、あ。この下手をすると「め」になってしまいそうな、そんな危うさが私の心をくすぐり魅了する。どんなにがんばっても「は」にはなれない、そんなところもとてもすてきだチャーミングだ。さらに、3画目のあの計算され尽くした曲線の美しさ、あれはどんなにがんばっても他の文字には出すことはできない万物の絶対正義であろう。賞自体がまだなかった平安時代にグッドデザイン賞を受賞したことからもそのすごさと影響力がわかるというものだ。あの内に取り込んだふたつの空間はやはり宇宙空間を表しているのだろうか。そうなると「あ」一文字に万の学術体系が内包されていると言っても過言ではなくなる。最近では空間内に金星人からのメッセージも散見され、その存在感は増すばかりだ。しかし、今の日本は「あ」を大切にしなさすぎる。しなくてもいい。




十一月二十五日(木)


髪を切りました。正確に言うなら髪に切られました。そう、奴らが突然反旗を翻し襲い掛かってきたのです。竹馬の友の突然の凶行、人類の命運も幾ばくもないかに思われたそのとき、奇跡が起こります。猫がオレンジ色になったのです。人類は絶滅しました。今回の問題はそもそも最初に果たして正確に言う必要があったのかどうかということに帰します。正確に言いさえしなければ人類の絶滅はなかったのです。確かに今思い返してみれば正確になど言って当然だったのかもしれません。なぜなら真実は一つであり一つであるからこそ厳格さが生まれ尊重されるからです。ですが、そのようなことで本当によいのでしょうか。今こそ我々国民がこの欺瞞に満ちた矛盾に気づき、怒りに震えたその声をあげるときなのではないでしょうか。このままではいつまで経っても猫はオレンジ味のままです。さぁ、今こそ物事を嘘偽りに塗り固めて世に放つべきときです。皆さんご存知のとおり、我々人類が髪に切られるという陰惨極まりない時代になってから早五百年、もはや我々人類の歴史は屈辱の歴史以外なにものでもありません。今こそ歴史を変え、我々を英語で言うとweです。




十一月十一日(木)


道を歩いていたらですね、猫というか子猫というかにゃんこというか電信柱があったんですよ。ああ、電信柱か、もうそんな季節になったのかとしみじみと思っていると、なんか後ろの方から特になにもこないのであまりの恐ろしさでそのまま家に帰ったんですね。そしたらびっくりですよ、さっきあんなに遠くの駅で見かけた自分のトートバックがいつのまにか家の前にいるんですよ。つけられたとも考えられないし、そもそもあんなものが独りでに動くとも考えられないしでもう頭が混乱してヒスパニックですよ。やはり今回のこの恐怖体験も一連の箸を持ってるとたまに小指が攣る心霊現象と関係があるのでしょうか。私にはとてもじゃないけれど信じられません。しかし、もうここまできたらこれは信じるしかないのかもしれません…。(ここで30分ほど鉱質コルチコイドについてのフリートーク)(再開)既知の通り、昨今の世界情勢はアメリカの一極主義となっております。この世界で我々のなしえることは何か。というかそもそもあれですよね。どれですか。いい加減なこと言わないでください!見損ないました!さようなら!こんにちは!